2015年8月5日水曜日

3.11の記録 地震発生当日

何度かの余震が続く中、秋葉原の駅前に移動。
その間Twitterを確認すると、震源地は三陸沖だと分かった。
地元のフォロワーのツイートでも、「地震大きかった」とか「びっくりした」とかの書き込みがあったが、それ程の緊迫感は伝わってこなかった。
妹にも様子はどうかとメールを入れた。

震度5を経験したときは、実家の土壁の一部が崩れた。当時は商店をしていたので、商品の瓶が何本か割れたぐらいのものだった。
それ以上の地震が来ても、そうそう家が倒壊するようなことはないはず。裏の庭に出ていれば、命に関わることはめったにない、というのが確信としてはあった。
ツイッターの様子からも、地震は大きかったけど、大混乱が起こっているような気配は感じられなかった。

それよりも、地元の感覚では地震よりも津波の方に意識が向けられる。
幼少より、津波の恐さを意識付けられて育ってきた。
それというのも、50年前の1960年5月に南米チリで起こった地震によって、三陸沿岸は津波の被害にあっていたからだ。
チリ地震津波の記憶は、親の世代にとっては忘れられない大惨事であった。
しかも、我が家はその時に家ごと津波に呑まれ、眼前に広がる広田湾を横断し、対岸の突端でもある唐桑半島の先まで流された。

父は自力で家を再建し、一年後の4月に私は生まれた。
その当時は実家の目の前には浜が広がり、波打ち際まで歩いて行ける距離だった。
津波の後、もとの海岸線から一キロほど海側に6メートルを超える防潮堤が建てられ、実家の前は広大な干拓地となった。
元は海であるから、塩害によって作物は育たず、何も手を加えることなく放置されていた。物心ついた時にはそんな状態で、広い野原は遊び場になった。子どもの頃の記憶にはそこを自転車で乗り回していたり、野球をしたり、農薬散布のヘリコプターが飛び立つのを見に行ったりした。

6メートルの防潮堤は、このチリ地震津波の波の高さから決められたもので、陸前高田市の津波被害による海岸線にそびえるように建てられた。

地震が起これば、津波が来る。
標語のように意識付けされた思いは、地元の人間であればなんとなく分かることだろう。

三陸沖は地震が発生しやすい。そこは太平洋のプレートが沈み込む場所だからだ。
地震が起こる度に、津波を警戒する意識は高まる。津波警報と避難場所には日頃から注意を払い、実際に避難する場合もあった。
しかし、生まれてこれまで、防潮堤を脅かすような津波が起こったことはなかった。
予想ではメートルを超すという情報が流れても、実際には50cmぐらいだったりと、
本当にメートルを超すような津波が押し寄せたという記憶がない。

これではまるで寓話のオオカミ少年のようである。
いつしか、どうせそんなものだろう、チリ地震津波を超えるような津波がそうそうくるもんじゃない、という気持ちが芽生えてもおかしくはない。

まさしく、その時の自分も、「地震はまあ大丈夫だろう。津波がくる危険性はあるが、あの防潮堤を越える程ではないだろうし、実家は海岸から1キロ離れてるわけだから、ちょっと波が超えてきたとしても、逃げる余裕はあるだろう」ぐらいに思っていた。

大げさではなく、本当にその程度だと考えていた。

地震の影響で、都内は電車が止まり、どこにも移動できなくなった。かといって、余震もあると思うと、どこかの店内に入るというのもはばかられた。1時間も待ったら、電車も動くかもしれないと思い、ネットの情報とツイッターやSNSなどを見ていたが、地震直後には書き込みがあった、地元フォロワーの書き込みが全くなくなった。

おかしいなと思い、メールやダイレクトメッセージなどでコンタクトを取ろうとしたが、まったくリプライがない。電話も繋がらない。
その時点では、結構大きな地震だったから、電話回線も混雑して繋がらない状態なんだろうと思っていた。
連絡手段として活きていたのは、ツイッターとPHS回線がかろうじてという状況だった。
東京の友人とツイッターで連絡し合い、TVやラジオで流れている情報を聞いたりした。

5時頃になっても電車の動く気配はなかった。
この様子では、いつまで待っていてもラチが空かないな、と思い始め、連絡を取り合っていた目黒区に自宅のある友人の所まで歩くことにした。

秋葉原から東京方面に向かい歩き出したのが、6時頃だったと記憶している。
そこから前代未聞の東京帰宅難民行列が始まったのだ。




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