2015年8月7日金曜日

3.11の記録 当日夜

夕方になって、会社帰りの人々が街に溢れ出てくると、歩道は見たことのない人の群れが行進する長い行列となった。
途中、外から覗けるテレビなどを見つつ、ツイッターの確認をしながら歩いたが、相変わらず地元の情報はどこからも得られない。わずかに覗けたテレビではどうやら津波も発生したという事が分かったぐらいだった。
そのうち、気仙沼で火災が起こっているという情報が入り、だんだんとただならぬ雰囲気が街に溢れかえってきたようだった。
途中、コンビニに寄って飲み物か、ちょっと食べるものを買おうかと思ったが、棚には食料品の類いは全く無くなっていた。自動販売機も売り切れのランプが赤く光るばかりだった。
辺りが暗くなった頃に、東京駅周辺に近づいた。その頃には大通りの歩道からも人ははみ出し、アリの大群のような黒い影が、黙々と歩く異様な光景となった。これだけの人がいるのに、全体の空気は重々しく、帰宅を急ぐ足取りの音だけが響いていた。
友人からのメッセージで「東京駅からバスがあるんじゃないの」と言われたが、いざ駅についてみると、そのバスに乗るために並んでいるどの列も100メートルほどにも及んでいた。
これを待つ時間があるのなら、歩いた方がよいと思うしかなかった。

白金方面から目黒方向に抜けて、友人宅にたどり着くころには夜中の10時過ぎになっていた。
秋葉原を出てから、ほぼ4時間強といったところだろうか。

何も分からないまま、とにかく歩いた。あまりに情報がない中で、何を考えても無駄だと思った。気がかりなのは津波がどの程度のものなのかだ。聞こえてきた話では10メートルを超す、というが、それがどこのことかもわからないままだった。

友人宅では、鍋にお酒も用意してくれていて、ひとまず落ち着いて状況をみようということになった。
テレビでは気仙沼の火災の様子が映し出されていた。しかし陸前高田についての情報は、この時点でも一切でてこなかった。しばらくすると13メートを超える津波が三陸沿岸を襲ったというニュースがあった。

「13メートル!!」

一瞬想像がつかなかったが、防潮堤の倍以上の高さである。その津波が襲ったということは、二階建ての家なら水中に没する規模だということだ。
これは尋常ではない。大変な事が起こっている。
正直、まだ大丈夫かもしれない、と思っていた気持ちはいっぺんに吹き飛んだ。

もちろん、自分の家もどうなっているか分からない。防潮堤から1キロの距離で、波がどのような状態になるのか見当もつかない。それでもただでは済まないだろうという予想はできる。
もし、そうであっても、家の裏から山の方に車で逃げたら大丈夫だ、という思いはあった。
両親と、妹家族が、とにかく逃げていてくれ。

そう願うしかないまま夜はふけていった。
用意してくれたお酒はいつも以上に飲んでいたかもしれないが、まったく酔った感じにはならなかった。
新しいニュースが出てこないとなってから布団に入ったが、寝たのかどうかも今となってはよく覚えていない。


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